読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

部屋とYシャツと刀剣乱舞

刀剣乱舞(とうらぶ)はじめました。日記的な内容をツラツラ綴ります

【刀剣乱舞】にっかり青江

にっかり青江のアレコレを色んなページから纏めたメモ。

f:id:sinobusan:20160727223249p:plain

 

正式名称:にっかり青江

この特徴的な名称は安土桃山時代に定着していた。

由来として有力な話は以下の通り。

にっかりと笑う女の幽霊を切り捨てたという伝説からという事である。

ある時、領内に物の怪が出るという報告を聞いた領が自ら領内を見まわっていると、深夜に幼子を連れた女が現れた。『お殿様に抱いてもらえ』とに言われた幼子が駆け寄って来たため、物の怪に違いないと踏んだ領は走り寄ってきた幼子を江の名り捨てた。続いて女の方がニッカリと不気味に笑い、『私も抱いてください』と近寄って来た為、返すり飛ばすとやはり手応えはあったものの、女の姿は子供と同じく掻き消えた。翌、明るくなってからその現場を確認しに向かったところ、二基の石籠がっ二つに切り倒されて転がっていたという。

また、丸亀城は創建当初から幽霊妖怪撃が絶えない不吉なであったが、新たにこのにっかり江を携えて入したはなんらの祟りも受けることがなかったという。

作者  :青江貞次(備中青江派)南北朝時代

青江に住した守次の子で、後鳥羽上皇の御番鍛冶(二月番)に選ばれた名工。

守次(祖)の長男、次男は恒次(数珠丸の作者)

通称は、右衛門亮

青江鍛冶は、備中国の青江に住した一派。(平安後期~南北朝期)

平安後期から鎌倉初期の青江鍛冶を古青江と呼ぶ。

所説あるが、今の岡山市北部の子位庄、万寿庄と呼ばれた青江に住した鍛冶と、西南部の妹尾と呼ばれた地域に住した鍛冶を青江鍛冶と呼ぶのが一般的。実際は定かでない。

室町時代になると、青江鍛冶は跡形も無く消滅、理由としては、南北朝の争乱期に敗北した武士達の庇護下にあった為と言われている。

 

貞次の刀

  • 大青江…金象嵌銘 貞次磨上之/本阿(花押)富山前田家伝来。重要文化財。個人蔵。
  • 小青江…金象嵌銘 貞次、二尺二寸二分。富山前田家伝来。重要文化財。個人所蔵。昭和10年12月18日に重要美術品に指定。戦後前田利為侯爵より出る。
  • 地蔵丸…妖女を切ったが、翌朝見てみると地蔵だったという事より。前田家の重臣 今枝民部重直の父今枝忠光所持。
  • 真田家の大太刀…銘「備中国住人〇〇/延文六年二月日」、真田源太左衛門尉信綱(真田幸隆の嫡男)所持。『真田家譜』に「青江貞次の鍛える三尺三寸余りの陣刀」と記されている。真田宝物館所蔵。

 

刀の特徴

元は大太刀(二尺五寸・現在の分類としては太刀)で有ったが、二尺、さらに一尺九寸九分に練り上げられた大脇差。

大磨上無銘・・・銘が完全に消えるまでに磨き上げられたもの。

磨上げとは・・・刀身が長すぎる為に、茎尻より切り縮め短くする事。

 南北朝期製作の長大な刀は戦闘様式の変化に伴い大磨上無銘のものが多い。

 これは刀が実用の時代を生き抜いた証拠とも言える。

金象嵌銘・・・羽柴五郎左衛門尉長

 大磨上の為、途中で切れていると思われる。

 羽柴五郎左衛門尉長秀か、羽柴五郎左衛門尉長重だと言われている。

 

縞造り、大切先、目釘孔三個

金梨子地四つ目結紋散糸巻の太刀拵が附く。

鞘には五三桐散と(隅立)四つ結紋が金蒔絵で入る。( ←意味分からん…。)

 

主な所有者

 伝説の斬ったとされる武士は3説ある。

 ①【享保名物帳】説 中島修理太夫 もしくは、中島九理太夫

 ②【常山紀談】説 浅野長政の家臣

 ③【京極家伝】説 六角義賢に仕えた狛丹後守

  ↓

柴田勝家

  ↓(子)

柴田勝敏

  ↓(戦)

丹波長秀

  ↓(献上)

豊臣秀吉

  ↓(子)

豊臣秀頼

  ↓(大阪冬の陣の和儀の礼)

京極忠高

  以後、(丸亀藩主)京極家に代々受け継がれる

太平洋戦争後、様々な持ち主の手に渡るが、銀座の刀剣店より丸亀市が購入。

丸亀市立資料館所蔵

 

1940年(京極高修子爵所持)重要美術品に認定。  

 

その他

  • 『享保名物帳』の伝承に思うところ有り、石切丸と出陣すると回想が発生する。
  •  京極家自慢の名刀であり、粟田口宗光(家康より拝領)と京極正宗(豊臣秀吉より拝領)とにっかり青江をもっとも大事に秘蔵したという。中でもにっかり青江は、代々殿様が殿中差しとして使用、八代将軍吉宗の台欄に供した。
  •  狂歌:京極に過ぎたるものが三つある、にっかり茶壺に多賀越中
  •  私的記述だが、にっかり青江のバスタオルを手に入れた。(笑)

 

 

以後、随時追加記載予定…。